「寛仁の君」と呼ばれた若き君子。清少納言『枕草子』〜一条天皇篇〜

 

皆様、こんにちは。小暮です。11月です。

今回は「枕草子」より、一条天皇・懐仁について取り上げたいと思います。

 

一条天皇について

第66代天皇である一条帝は、わずか7歳で即位しました。枕草子に出てくるのは主に10代後半の姿です。父は円融天皇、母は藤原兼家の次女である詮子。皇后(前中宮)に定子、中宮に彰子がいました。定子が入内したのは、一条帝の元服に合わせた990年のことで、一条帝は11歳、定子は14歳でした。

定子の年齢については、一条帝より3歳年上という説と、4歳年上という説があります。

一条帝から信頼を得ていた藤原行成は、その日記「権記」の中で、一条帝を”寛仁の君”と評しました。穏やかな人柄で、音楽を愛したといいます。32歳で夭折しますが、その在位は25年に及びました。

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枕草子での一条天皇

枕草子では年若いせいか、素直でおっとりとした印象です。

猫好きだったようで第6段「上にさぶらう御猫は」では、殿上を許される5位の位を授かった”命婦のおとど”という猫が登場します。名前からすると、どうもメス猫だったようです。

少納言自身は猫について、第49段にて「猫は、上の限り黒くて、腹いと白き」と書いており、背中などが黒くて腹の白い猫がお気に入りだったよう。

また第77段の「御仏名のまたの日」では、地獄絵の屏風を定子に見せた一条帝が「これ見よ、これ見よ」とおっしゃったけれども、少納言は恐ろしくて部屋に引っ込んだと書かれています。これは怖がる少納言を面白がっていたのではという節が。このとき一条帝は15~16歳。少年らしい雰囲気です。

また第46段の「職の御曹司の西面の立蔀のもとにて」では、定子と一緒になって御簾越しに人々を眺め、そこに帝がいるとは露知らない様子を面白がっている姿も描かれています。

 

笛の名手だったという一条帝が、演奏するさまを書き写したのが第230段「一条の院をば」。参内した定子に、高遠の兵部卿との二重奏を聴かせる場面です。「高砂ををりかへして吹かせたまふ」とあります。途中から、藤原輔尹をからかった歌を吹き始めるのですが、本人に聞こえるのをはばかってずいぶん小さな音で演奏したとか。その後、「かの者なかりせり。ただ今こそ吹かめ」と、輔尹のいないときに改めて聴かせてくれたといいます。臣下に配慮するあたり、”寛仁の君”ともいわれるとおり、心優しかったようです。

二人の后

 長徳の変の後、出産で退出していた定子は、再び後宮に戻ってから職曹司へと居を移します。角川ソフィア文庫石田穣二氏訳注の「枕草子」には、上巻に系図と内裏図・大内裏図が載っているのですが、職曹司は内裏を出てしまっていて、帝のいる清涼殿からはかなり遠い。このときにはもう、帝はあまり通わなかったとはいえ女御も数人いました。父を亡くし、兄が失脚した定子の苦しい立場が伺えるわけですが、一条帝とは終生仲睦まじかったといいます。一条帝が職曹司まで足を運ぶエピソードは「栄花物語」にも記されています。

 

歴史に名を残す二人の后を持った一条帝が、両手に花で心地良かったかというと、なかなか大変だったようで……なにしろ、望月の欠けたることもない道長に圧倒されている状況です。

晩年には、定子の遺児である敦康親王を次の東宮に推しますが、道長に阻まれ(道長は当然、娘の彰子があげた親王を推しました)、世を去る折には苦い思いもあったのではと察せられます。

おまけに辞世の句ははっきり伝わっていない始末。

「露の身の草の宿りに君をおきて塵と出でぬることをこそ思へ」

「露の身の風の宿りに君をおきて塵と出でぬる事ぞ悲しき」

上は道長の日記「御堂関白記」に記されたもの。下は「権記」に記されたものです。行成は辞世の句について、権記にはっきりと「皇后に宛てたもの」と書き残しています。定子の辞世の句に歌われた「草葉の露」を受けているとも思えますが――最近はもう、千年前の人の想い人はどっちだと追求するのも不毛なことだという気がしてきました。枕草子を読んでいたら、そういうことも気にはなるんですが。

若くして世を去ったということもあり、涙を誘う一条帝ですが、いまだに論争の種になるくらい、自分の心を明け渡さず、しっかり持っていったのかもしれません。

枕草子―付現代語訳 (上巻)

 16.11.23. 記述間違いを修正

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