実は人間失格ではないという話なのかも。太宰治『人間失格』
皆さま、こんにちは。小暮です。10月です。9月はついに1回も更新できませんでしたが、今月はいくつか更新したいと思っています。
恥の多い生涯を送って来ました。
この一言が有名な『人間失格』。太宰は小説の書き出しにこだわりがあったといい、ドキッとさせられる一文になっています。これは主人公の手記の部分の出だしにあたり、まず”はしがき”で語り手が主人公の三枚の写真を見たあとに手記を読み始めるという構成です。
三枚の写真評は、子供時代→奇妙に醜い、青年時代→容姿端麗だが造り物めいている、27歳ごろ→白髪が混じり老人のよう・表情もなく印象もない――というものになっています。
主人公・大庭葉蔵は、子供の頃からその行動基準が、人にどう思われるか、であったように思えます。わざとおどけてみせて、大人たちや同級生を笑わせる。そして自分が道化を装っていることを見抜かれるのが何より怖い。
つまり、子供のときから本心を誰にも見せたことがないのです。権力を持つ恐ろしい父親、有力者の父にお愛想を言いつつ陰口を叩く村の男たち、自分を構い散らす女たち、使用人からの虐待。金持ちの子だと少し距離を置いてくる同級生たち。
自分は、空腹という事を知りませんでした。
というくらいに裕福な家庭で育ち、傍から見れば何不自由なく暮らしているように見えたでしょう。でも、この子は孤独だな、と。
衣食住さえ足りていれば問題ないというのはあまりにも唯物的です。心から信じられる人、ありのままの自分を認めてくれる人がいないというのは、大人だってつらい。この子はきっと心が貧困状態だったはずです。何が欠乏しているのか自分自身にもわからず、何をどう訴えていいのかもわからず、ただ苦しみだけはあるのに理解されないという状態だったのではないか、という気がします。
大人になってからもしっかりしないのは、子供の時に人間関係の築き方を学べなかったからでしょう。それにもともと自己主張が強いほうではなさそうです。覇気や野心を持たない穏やかな気質は、厳しい男性社会を渡り歩くには繊細すぎたのかもしれません。
実際、葉蔵は男性を少し苦手にしている印象です。
一方で、美貌であるがゆえに、簡単に手に入る女性たちのことはだいぶ軽んじているよう。むしろ、彼を許さない、愛情のなさを責めるくらいの女性だったら良かったのか? ……それだと逃げ出しそうですね.。葉蔵の欠乏感を埋めてくれるのは、女性ではなかったということでしょうか。思うに、自己確立がまだ終わっていないので、人の愛情を受け取り、さらにそれを返せるような段階ではなかったということなのではないかと。
最初、この主人公の意志がないわけではないけれど流されがちなところが、まるで人形のよう。即ち、人間失格という事なのだろうかと思いましたが。
……(前略)……そうしてここに連れて来られて、狂人という事になりました。……(中略)……
人間、失格。
もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました。
葉蔵は、薬物中毒になって父親から病院に幽閉されてしまいます。つまり、この扱いによって「人間失格」の烙印を押されたわけです。
葉蔵が一貫して弱々しいので、抗っているように感じられないのですが、それでもやはりこれは「人間失格」と決めつけられたことへの抗議なんだろうなと。ラストでバアのマダムが語り手に話した一言もそれを意味しているのでしょう。
弱々しく迷走している葉蔵だけれども、それでも人間なのだ。
そういう話だったのかなと思います。
よく自伝と紹介されているのですが、多くの指摘があるように、違うだろうと思います。
ずっとこれは太宰の弱音なのではないかと思っていました。『桜桃』のほうがよほどしっかりした語り口でしたし。
見方が変わったきっかけは、太宰治の大ファンだという又吉直樹さんの『人間失格』評です。以前、又吉さんがテレビ番組で『人間失格』について熱心に語っているのを見たのですが、直後よりも時間の経過とともにその発言が自分の中で大きくなってきて、大庭葉蔵を好意的に見てみようと思い直しました。すると読み解けずにもやもやしていた部分も新しい解釈ができて、全く別の作品を読んだような感覚になりました。
もう一度、考察しなおした記事がこちらです。