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言葉の限界という境地。ヘルマン・ヘッセ『シッダールタ』

 

皆さま、こんにちは。小暮です。

今日はヘルマン・ヘッセ著『シッダールタ』について。読み始めてから幾星霜……ようやく読み終えました。

 

ヘッセの宗教的体験を描いたという『シッダールタ』

著者のヘルマン・ヘッセは20世紀はじめに活躍したドイツの文豪で、ノーベル文学賞も受賞しています。『シッダールタ』は1922年、著者が45歳のときに発表された作品です。

ヘッセが傾倒していたインド思想に基づいていますが、お釈迦さまが主人公の話というわけではありません。同作では悩める青年であるシッダールタと、覚者というブッダにあたる存在が登場し、つまり釈迦の出家前と出家後の人格が別々の人間として描かれています。

一般的に同作はヘッセの宗教体験を描いたとされていますが、確かに、青年シッダールタにヘッセ自身の思いを重ね合わせている印象です。

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 人の業を学ぶ

物語は二部構成になっています。

前半は叡智を渇望する青年シッダールタがバラモンである父の元から旅立ち、同行の幼馴染みとともに覚者に出会い、覚者のもとで学ぶことに決めた幼馴染みと決別して再び旅立つまでが描かれています。

後半は遊女と出会い恋に落ちたシッダールタが、商才を発揮して莫大な財産を築いた後に、その一切を投げ打って旅に出、渡し守となって悟りを開くまでが語られます。

前半のシッダールタは若々しく潔癖で、物語は格調高く進みます。後半は俗世に身を置いた働き盛りのシッダールタが器用に成功を成し遂げ、前半とはガラリと雰囲気が変わります。ヘッセは前半を書き終えた後、後半に取りかかるまでかなりの時間をおいたということですが、それも納得できる変わり様です。

シッダールタは俗事に手を染めながらも、その人間性が損なわれることはありません。何事にものめり込まず、人とはどういったものかを学んでいるといった態です。青年期を経て、働き盛りを過ぎ、老いを迎える。そのすべてを体験してこそ、人間というものがわかるということなのでしょう。

 

シッダールタの得たもの

シッダールタが求め続けたものは叡智です。そのために、彼は覚者のもとをも後にします。知識は求めれば幾らでも得られるが、知恵はそうではない。覚者の知識は受け取れても、悟りを開くに到ったその体験の極意は、自分自身で探るしかない、と彼は気づきます。

知識を受け取り無私の伝聞者となるか。知恵を得て自らも高みに至るか。

聡明なシッダールタは前者が苦悩から解放されることはないと悟って後者を選び、そのために俗世間に身を投じることも、築き上げた財産の一切を手放すことすら厭いません。ひたすら叡智を追求する理想的求道者の姿がそこにはあります。

 

言葉と思想の限界

渡し守となったシッダールタは、幼馴染みのゴーヴィンダと再会し、自らの思いを語ります。シッダールタが求道の果てに悟ったのは、言葉と思想の限界でした。

言葉は物事の一面しか表さず、全体性を欠く。

悩みは言葉の多さによる。

言葉と思想は同義である。

自分は思想より物を重んじる。

……かなりのページに渡って語られているので、まとめるのは難しいのですが、ただ、教えには言葉があるばかり、というシッダールタの言には信仰だけにとどまらない深遠さがあります。長年、言葉と向き合い続けた作家がこれを書いたというのも大きいと思うのです。向き合い続けたからこその境地といえそうです。

 

まとめと感想

 この話を読み終えてからこの記事を書くまで数ヶ月かかっているのですが、時間を置いたことでまた感想が変わってきています。

実はこの作品、もう何年も前にどういうわけかラストを先に読んでしまっていました。(感銘を受けたものの、おかげで途中が読めずに放置する羽目にもなってしまったのですが。) そのときは、向き合い続けた果てにその限界を知るなんて認めることすら苦しいだろうに、その限界にも向き合うのだな、すごいな、というふうに考えていまして。

読み終えた直後はまだこの感想を引きずっていて、限界に気づくというのを喪失として捉えていたのです。

しかし、改めて考えてみると、これはつまり殻を破るということで、限界を知ることはむしろ喜びだったのではないか。言ってみれば精神の進化なのだから。今はそう思います。 

 

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