毒舌の裏に涙の人生あり。田辺聖子『小説枕草子 むかし・あけぼの』

 

皆さま、こんにちは。小暮です。お久し振りです。

読了まで随分かかってしまいました。しかし、ずっと読みたかった田辺聖子氏の『むかし・あけぼの』を読み終えることができ、大満足です。以下、早速感想など。

 

まず小説化に拍手!

枕草子は、清少納言が日常の一コマを切り取ったもの。それに、「すさまじきもの」「心ときめきするもの」など、テーマに合わせて「なるほど」と思えたり、クスリと笑ったりするような事柄を挙げてゆく、といった趣向が中心です。

『むかし・あけぼの』の文中でも、「瞬景」という言葉を用いていますが、珠玉の一瞬一瞬を描いているのが枕草子の特徴であり、魅力でもあります。ただ、それだけに細切れで、バラバラのピースを繋ぎ合わせて小説に仕立てるのは至難の業。まずは、よく小説化してくれた、というのが正直なところです。

そして、物語として純粋に面白くなっています。「あとがき」を読むと、田辺氏は清少納言に共感するところも多かった様子で、一人の女性としての少納言を生き生きと描き出しています。

書き出しの五行だけ、やたらカジュアルな文章なのが引っかかりますが、これは敷居の高い古典という題材を、現代人にも読みやすくという配慮なのではないかと思われます。逆にここで挫折する人もいそうです。その後はすっと文章が落ち着き、読みやすくなるので、最初だけ我慢していろんな人に読んでもらいたいなと思います。

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主婦が宮廷女官に。清少納言の人生

歌人清原元輔の末娘だった清少納言は、十代の終わりで橘則光と結婚し、その後10年ほど普通の主婦として人生を送ります(作中では、少納言の名は海松子(みるこ)となっていますが、諾子(なぎこ)とする説もあり、要するに本名もよくわかっていない謎の多い人物。田辺氏は枕草子はもちろん、大鏡鎌倉時代に作られた逸話など、丁寧に取材して描いています)。

主婦として生きる少納言は、日常に手応えのなさを感じつつも、暮らしに不足はなく、だましだまし日々を送っている状態です。

「柔らかく手応えのない、湿潤な幸福の粘膜、とめどもなく安逸になだれおちてゆく人生、それに身を任せる、あのちょっとうしろめたい、居直った、ふてぶてしい平穏、私はそこにぬくぬくととぐろをまいて居坐っていた。人は慣れれば糞の上でも居心地よくなるというけれど……。」(『むかし・あけぼの』上巻より)

人には向き不向きがあるように、少納言は主婦には向いていなかった様子。趣味で書き散らしていた『春はあけぼの草紙』が友人の弁のおもとを通じて、中の関白家の大姫・定子姫に渡り、その目に留まります。弁のおもとから聞かされた定子姫のお誉め言葉に心救われる思いの少納言は、まだ見ぬ聡明な少女の姫に尊敬と憧れを募らせ、入内して中宮となった定子姫の求めに応じ、宮仕えすることを決めます。

そして、身を置くことになった、やんごとない宮中は……。

「男も女も、粋も無粋も、典雅も俗悪も、そこにはすべてものがあった」(『むかし・あけぼの』上巻より)

まさに水が合った少納言は、宮中で生き生きと活躍しはじめます。

 

中宮定子に父・清原元輔。小説化によって命を吹き込まれた人々

小説化されたことで、枕草子に描かれた事柄に、他の文献や歴史資料からの裏打ちがなされ、人も物事もより鮮明に浮かび上がってきます。特に魅力的に描かれていた人物は、少納言の父・清原元輔と友人・弁のおもと。

元輔は、年老いてから生れた末娘の少納言を可愛がり、少納言をのびのびと育てます。なかなか出世できずにいた元輔ですが、今年も昇進が叶わなかったという日に、来年また頑張る楽しみができたというくらい余裕のある人物で、少納言の冗談好きも父譲りのようです。官位は低くとも歌人として世間から一目置かれている父に、少納言も尊敬と親愛の情を寄せますが、その思いが読者にもすっと腑に落ちる好人物として、元輔は描かれています。

弁のおもとは、定子の母・貴子の上に仕える女房で、少納言の古くからの友人にあたります。少納言の母は小野宮家の女房でしたが、その同僚の娘が弁のおもとです。弁のおもとは中の関白家の様子を少納言に聞かせ、定子姫と知り合うきっかけを作ってもくれます。なにより、彼女は少納言の視野を広げた人物で、姉のような弁のおもとが颯爽と生きる姿は少納言に強い影響を与えました。また、『春はあけぼの草子』の最初の理解者で、書き続けるよう勧めた人物でもあります。死の床で、明るいことや楽しいことだけ書けばいいと枕草子の指針となる言葉を残すなど、少納言に道を示し続けた大きな存在で、その個性と魅力が伝わってくる描かれ方でした。

そして、中宮定子。

 定子は少納言より11歳年下だろうといわれています。身分がいくら高いといっても、一回り近く年下の少女に寄せる尊敬とは……と、そのあたりは枕草子を読んでいてもわかりにくい部分でした。けれど、作中の定子は少女でありながら鋭い感性を持ち、共感に渇えていた少納言の言葉を理解しました。なるほど、持って生まれた感性は年齢に関係がなく、そして、共感を与えられた少納言が素直な尊敬を抱くというのには、非常に納得がいきます。少納言は優秀な生徒を見守る気持ちなどではなく、純粋な尊敬と親愛の情を中宮定子に寄せていたのだと思うし、その構図を田辺氏が見事に描きだし、目の前に見せてくれたと、読んでいて膝を打ちたくなるような気持ちでした。

 

暗雲立ち込める下巻。鳥野辺の葬送に涙

上巻の途中で、中の関白・道隆が世を去り、一気に不穏な気配が立ち込めます。嫡男・伊周は後を継ぐ器量がなく、虎視眈々と権力の座を伺っていた叔父たちが満を持して動き始め、下巻のはじめの長徳の変で中の関白家の威光は地に落ちます。

それでも、中宮定子は一条帝の寵愛が深く、子宝にも恵まれ、内裏の内で一度は息を吹き返します。しかし、有力な後ろ盾がなく、道長の強権に押され、ついには産褥死を遂げます。

下巻は読んでいてひたすら胸苦しく、上巻における一点の曇りもない梅壷の華やぎに、飛ぶ鳥を落とす勢いだった中の関白家の繁栄を思うと、まさに雲泥の差です。政治的な思惑にのまれて、少納言も苛立ってきます。それでも彼女たちは趣向を凝らし、明るく笑う。それはささやかな抵抗だったのかもしれません。

中宮定子の亡くなる場面、伊周と隆家が声を張り上げ、その亡骸にとりすがる様には、読んでいてボロボロ涙が零れました。このブログで取り上げた本の中じゃ、初めて泣いたんではないかな……。

少納言が決して描かなかった場面ですが、むしろこの場面を枕草子に描いたほうが、世の同情を買って有利だったかもしれない。けれど、それをしなかった、定子がもっとも幸福だった時代を描いた少納言の思いというか決意というか…… それはやはり胸に迫るものがあります。

作中で描かれる、少納言の素の部分、恋愛などは正直かすんでしまう。やはり少納言は定子のもとで、その機知を発揮するときにもっとも輝くのだなと思いました。

 

まとめと感想

枕草子のどこがそんなに魅力なのか?

それはやはり天性の明るさと率直さではないかと思います。少納言は人のことを言いたい放題に書く分、自分の失敗談もあけすけに記しています。確かに毒舌が過ぎると感じるところもありますが、人に気を遣いすぎて何が言いたいんだかわからないような文章じゃしょうがない(私の昔の記事とか)。少納言は、思い通りにならない人生、それでもどう楽しく生きるのかを、考える人だったのではないかと。

いずれ死ぬこと、人とかかわること、これは人間だったら避けられないことです。悩みの9割は人間関係だという人もあるくらい、頭の痛い人間同士の問題。それは今も昔も変わりません。同時代に居合わせた人々が、押し合いへし合い、ひしめきあう中で、どうやって生きていくのか。どうせなら楽しいほうがいい。うまくいっても、落ちぶれても、明るいほうを向いていよう、それが清少納言の生き様という気がします。

『むかし・あけぼの』では、定子亡き後の少納言もいくらか語られています。定子の最期があまりに衝撃的で、読みながらも蛇足に思えて仕方なかったのですが、60歳も過ぎた少納言が、みんな死んでしまった、左大臣道長)も行成の君も、というところで、ああやはり必要だと。いい余韻を得て、読み終えることができました。

新装版が出ていたので、リンクを貼り替えました。表紙が変わりましたねえ。

 

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