思った以上にゴシック小説だった、エミリー・ブロンテ『嵐が丘』
皆さま、こんにちは。小暮です。
2016年あけましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします。
お正月は長編小説を読んで(だらだら)過ごしておりました。
今日は年末から元旦にかけて読んでいたエミリー・ブロンテ『嵐が丘』についてです。
名作『嵐が丘』
有名な小説なので、あらすじは知っておりました。『嵐が丘』に関する大抵の説明は、「恋人キャサリンへの、ヒースクリフの暗く激しい愛憎の物語」ということになります。てっきりヒースクリフの一人称でその懊悩が語られるのかと思っていたのですが、はじめに出てきたのはロックウッドという陽気な青年で、ヒースクリフは都会から引っ越してきた彼に家を貸す、つまり家主という立場で登場します。そして物語は、ロックウッドにヒースクリフの経歴を尋ねられた女中のエレン・ディーンによって語られます。
結局、この第三者の視点というのが功を奏しています。というのも、ヒースクリフもキャサリンもほとんどの読者が共感できないような人物像なのです。
キャサリンは物語の中盤で世を去ってしまうのですが、前半の主役といってよく、とにかく強烈な性格の持ち主。登場人物の心理は女中のエレンにすべてをぶちまける形で描かれ、物語の構成上仕方ないとはいえ、主人たちの愚痴の聞き役になるエレンは大変そうです。キャサリンはものすごい激情家で、「わがまま娘」とエレンはあまり快く思っていません。キャサリンが瀕死の状態になったとき、
「死んだのならそのほうがいいわ。周りのものみんなの重荷になり、不幸のもとになりながら生き残るよりは、死んだほうがずっといいわ」(『嵐が丘』より)
と、心の中で呟いてしまいます。その胸中をあながち非難できないような凄まじさがキャサリンにはあります。こういう冷ややかな視点が時折混ざることで、読者もあまり反感を持たず(代わりにエレンが持ってくれるので)ついていけるところは大きいでしょう。特にキャサリンが亡くなる直前のヒースクリフとの遣り取りは、読んでいて疲れ果てました……まあ、エレンはエレンでちょいちょい問題行動もあるんですが……。
機能不全家庭の物語としての読み解き方
そのキャサリンの問題ある行状。それは幼馴染みのヒースクリフより、彼女の言うところの「お金持ちで美男」のエドガー・リントンを選んで結婚するところから始まります。が。一番に想っているのはヒースクリフで、キャサリンの結婚にショックを受けて失踪したヒースクリフが財産を築いて戻ってきたとき、幼馴染みを優先して夫を苦しませます。
ヒースクリフはキャサリンの父親が拾ってきたジプシー(本書より)の孤児で、キャサリンの父親亡き後、後を継いだキャサリンの兄ヒンドリーから虐待を受け、苦難の少年時代を強いられます。彼の性格の歪み方は出所がはっきりしていてわかりやすい。
一方、キャサリンはお金持ちのお嬢さまで、一見ただのわがまま娘にしか見えませんが、体を壊し、その激情が狂気じみてくるあたりから、やはり彼女の生い立ちを考えさせられてしまいます。
両親亡き後、幼いキャサリンは兄から放置されて育ちます。幼馴染みのヒースクリフは唯一人心を許せる友人で、このときに強い絆が育まれます。ただ、近所の人から妹の放置を指摘されたヒンドリーは、体裁が悪いので、途中でキャサリンをヒースクリフから引き離し、妹には真っ当な待遇と教育を受けさせます。物質的な豊かさが失われた状態でキャサリンはヒースクリフと精神的な豊かさを育みますが、後に兄から物質的な豊かさを与えられたと同時にヒースクリフから引き離され精神的な豊かさを奪われるので……幼い子供に酷な仕打ちだったことは間違いなく、後年キャサリン自身が幼い時分にヒースクリフと引き離されたのがショックだったと語っています。
ヒンドリーやその息子のヘアトン、エドガー・リントンの妹イザベラ、イザベラとの息子のリントン・ヒースクリフ、そしてキャサリンとエドガーの娘のキャサリン・リントン(以下キャシー)とにヒースクリフが加える虐待は凄まじく、ヒースクリフがヒンドリーから奪い取った『嵐が丘』は罵声と不信が渦巻く冷たい家に変貌してしまいます。
キャサリンはリントン家を引っ掻き回して苦しませますが、早くに世を去るのと、良識的なエドガーの努力によって、その家庭は早々に落ち着きを取り戻します。
(この登場人物の描き方に説得力があり、脇役一人一人にいたるまでの存在感はすばらしいの一言です)
生い立ちに問題のある二人が機能不全家庭をこしらえてしまう話という捉え方も可能ですし、実際、そういう側面があるのは事実。ただ、ヒースクリフは復讐のための手段として積極的に機能不全家庭をこしらえるので、普通のそれよりもだいぶ性格が異なるのは言い添えておこうと思います。意識しないでそうした家庭を築くというのはキャサリンのほうが当てはまるでしょう。ヒースクリフが築いた『嵐が丘』は家人どうしがいがみ合う最悪の家でゾッとする暗さです。恋愛云々よりそっちのほうが読んでいて強烈な印象でした。
ラストにかけて、ヒースクリフが年齢と長年の苦悩のために衰えはじめ、ヘアトンとキャシーの若さがそれを上回ってゆく姿は、世代交代を感じさせると同時、明るい変化を予兆させます。この二人は特に反撃をしたわけではないんですが、それまでの経緯が経緯だけに、ここでようやく現れた希望の欠片に読んでいてホッとさせられました。
ゴシック小説傾向の強さ
『嵐が丘』には超自然要素が含まれており、物語の舞台として描かれるヨークシャーの自然、荒野〈ムーア〉の姿――冬には峻厳で、夏には天国のように豊かになる――も物語に神秘性を与えています。
この話は18世紀後半から19世紀前半のイギリスが舞台なので、前述の機能不全家庭のような現代的な読み解き方もできるのですが、ヒースクリフとキャサリンの激情や周囲の巻き込み方には、ギリシャ神話やアーサー王物語のような、神話的、伝奇的な世界観が感じられます。自然とともにあり、もっと混沌としていた時代の、人間の原始的で激しい生命力が『嵐が丘』には描かれているように思えるのです。
エミリー・ブロンテが少女時代に妹のアンと『ゴンダル年代記』という物語を綴っていたのはよく知られており、現存してはいませんが、壮大な歴史物語を夢想するのが好きだったのだろうというのは伺えます。
そして家庭のゴタゴタに収まりきれないスケールの大きさが、『嵐が丘』の何よりの魅力でしょう。悪鬼のようなヒースクリフと、激情のあまり狂っていくキャサリン、そして世代を超えて受け継がれてゆく不幸な家族の歴史……舞台をファンタジーの世界に置き換えても充分通用しそうです。
まとめと感想
人を選ぶ作品だろうというのが率直な感想です。その不幸な生い立ちを考えても、ヒースクリフの復讐は全く容赦がなく、読んでいて胸が悪くなるような場面も多々あります。ただ神話的世界観を持った愛憎劇という作品の不思議な魅力に加え、描き切った作家の筆力には圧倒されるものがあります。よくこれだけの世界を創造し、そして完成させたなあと。片手間に小説など書けないというのは当たり前なんですが、体当たりで自分の書きたいものに真っ向勝負を挑んだ潔さや力強さを感じました。
嵐が丘(上)
( *私が読んだ本は出版元が切らしているらしいので、こちらをご紹介しています)