天性の物書き。清少納言『枕草子』~清少納言篇~

 

皆さま、こんにちは。グレコです。

今日は『枕草子』の作者、清少納言について。

 

人物について

歌人清原元輔の娘として生まれました。

名は諾子というのではないかといわれています。

歌人の娘で、学問の非凡な才を持っていたのに、

何故だか和歌が苦手だったといいます。

生年不詳ですが、最初の夫の橘則光よりも年下だったようです。

女主人の定子を失い、後宮を去ってから、

攝津(大阪)に下りましたが、晩年の消息は不明です。

 

執筆のきっかけ

枕草子の巻末で、なぜ書くに到ったかを少納言自ら記しています。

それによると、

ある日、伊周が定子に大量の草子(紙)を献上したとき、

「何を書いたら良いでしょう、主上(一条帝)は史記という書物を書き写すそうだけれど」

と定子から相談を受けた少納言が、

主上が敷(史記)なら、中宮(定子)さまは枕でございましょう」と答え、

そのときに執筆を任されたと言います。

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その人柄

枕草子を読んでいると、

無作法や無風流に対して毒舌を振るい、

才知で相手をやり込めるなどの逸話が数多くあり、

清少納言という人は随分と勝気だったんだろうと思われます。

しかし、自らの失敗談もあけすけに書くなど、

明るく率直な面も見られます。

 

月明かりの夜に牛車で川を渡ると、煌く水しぶきが水晶のようだ……とか、

瓜に描いた子供の顔はほんとに愛らしい……とか、

女性らしく、きれいなもの、可愛いものを好んだようです。

 

――落ち込んでいても、書き物を始めると夢中になって、心浮き立つ――。

こんなふうに書き残しているくらい、

物書きとして天性の資質が備わっていたんですね。

 

そして、理想の男性像についても多く書き記しています。

見目麗しく、お洒落で、風流な男性に憧れていたようです。

誰でも憧れますね。笑。

とはいうものの、仲が良いのは無風流な橘則光や頭の弁行成。

どっちかというとツッコミ甲斐がある人のほうがお似合いだったのでは。

少納言自身は認めたくなかったふうに見えますが。

 

後世の人物像を考える

とにかく評判が悪いですよね。

一番の要因として、政争に破れた側の人間というのがあるでしょう。

勝気で頭が良く男性相手でもやり込めるところが、

後の価値観に合わず嫌われたというのもありそうです。

また、平姓の人や源姓の人に辛辣な書き方をしている段があるので、

平氏源氏の武家の世になったとき、意趣返しされましたかね。

 

少納言の晩年を伝える逸話も幾つかあるのですが、

鎌倉時代に作られたと思われ、内容も突飛なので、

信憑性が高いとは言えません。

千年も昔の話……事実を知るのは容易ではありません。

 

まとめと感想

枕草子』は千年の時を経て現代に伝えられ、

少納言が封じ込めた在りし日の定子の姿、梅壷の華やぎを、

私たちも垣間見ることが出来ます。

また、読み物としても非常に面白く、魅力的です。

きっと、少納言は書くのが楽しくてしょうがなかったんだろうなと思います。

自分でも、何度も読み返していたんじゃないでしょうか。

そのまま、宮中の想い出の日々だったでしょうから。

時代も、その人生も、現代の感覚からは掛け離れていますが、

それでも彼女の感受性や、一人の女性としての視点には、

自然な共感を覚えます。

 

これで、『枕草子』の連載は終了となります。

楽しみながら書けました!

ここまでお読み頂き、ありがとうございました。

枕草子―付現代語訳 (上巻)

 

明日は自作駄文の予定です。

それではまた。

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